2007年02月08日
上毛かるた【か】
か…関東と信越つなぐ高崎市
高崎は江戸時代から交通の要所でしたが、高崎市街地の歴史は意外に古くはありません
古代の官道東山道は、野後(安中)から今の環状線に近い八幡、豊岡、小塙、浜川を抜けていました
鎌倉時代の鎌倉街道も板鼻から山名へ抜ける道でした
佐野や寺尾、矢中、片岡、石原などの地名は古くからありますが、今の高崎市街のある場所が文書に出てくるのは室町時代となります
和田義信が15世紀に小城の和田城を築き、戦国時代に上杉氏や武田氏に使えたりしました
北条氏滅亡後、箕輪城(大河風林火山にも出てくるかも…)から移ってきて以前からあった井伊直政が和田城を改修しました
この時に高崎の地名が生まれました
江戸時代、高崎は城下町であり商売の盛んな場所となり、お江戸見たけりゃ高崎田町、と言われたほどでした
中山道の宿場でしたが、城下町を嫌い本陣はありませんでした
ちなみに中山道の一番大きい宿場は、武蔵国の本庄宿(本庄市)です
以下続く
高崎は江戸時代から交通の要所でしたが、高崎市街地の歴史は意外に古くはありません
古代の官道東山道は、野後(安中)から今の環状線に近い八幡、豊岡、小塙、浜川を抜けていました
鎌倉時代の鎌倉街道も板鼻から山名へ抜ける道でした
佐野や寺尾、矢中、片岡、石原などの地名は古くからありますが、今の高崎市街のある場所が文書に出てくるのは室町時代となります
和田義信が15世紀に小城の和田城を築き、戦国時代に上杉氏や武田氏に使えたりしました
北条氏滅亡後、箕輪城(大河風林火山にも出てくるかも…)から移ってきて以前からあった井伊直政が和田城を改修しました
この時に高崎の地名が生まれました
江戸時代、高崎は城下町であり商売の盛んな場所となり、お江戸見たけりゃ高崎田町、と言われたほどでした
中山道の宿場でしたが、城下町を嫌い本陣はありませんでした
ちなみに中山道の一番大きい宿場は、武蔵国の本庄宿(本庄市)です
以下続く
Posted by 喜茶真 at 12:15│Comments(0)
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